氷は地球や宇宙に遍在し,その表面は,極域上空や星間分子雲等の低温環境で起こる種々の化学反応・分子進化の反応場として機能している。これらの低温環境における氷表面の反応性の微視的起源に迫るには,低温氷表面の水素結合に関する分子レベルの知見が不可欠である。
筆者らは,和周波発生(SFG)振動分光法を用いて,結晶氷(氷Ih)表面の微視的な水素結合構造や動的性質の観測に挑戦してきた。とりわけ,低温でも氷表面に不純物が付着し得ない超高真空環境下でSFG分光研究1, 2)を展開し,これまでの研究3)では観測が困難であった200 K以下の幅広い温度領域の氷表面の構造解明に挑んだ4~6)。
その結果,従来の研究でしばしば想定されてきた「200 K以下では氷Ih表面の格子(水分子の酸素の配置)は秩序化し6員環を構成している」という定説とは裏腹に,実際には氷の最表面が完全に6員環構造で秩序化するのは120 K以下であることが判明した4)。120 Kから200 Kにおいては,6員環構造が部分的に崩壊し5員環や7員環構造が混じり,結晶状態とも液体状態とも異なる構造とダイナミクスで特徴づけられる中間状態が熱力学的に安定に発現することが明らかになった4)。また,結晶氷の微結晶化に際して,最表面が結晶状態から中間状態へ転移する温度が120 Kから90 K程度にまで低下するナノサイズ効果も見いだされた6)。バルクの結晶氷においてはこのような中間状態が安定的に発現する温度領域が存在しないことから,表面低次元系に特有の新奇な現象である。
こうした氷表面特有の水素結合のダイナミズムに起因して,氷の最表面では「水分子の自己イオン化効率がバルクに比して飛躍的に増大する」という特異な化学的特性が発現することも明らかになってきた7)。今後は,極微的な空間分解分光法等を駆使した研究展開により,動的な低温氷表面のユニークな化学的特性や触媒機能の微視的起源の解明が期待される。
1) T. Sugimoto et al., Nat. Phys. 2016, 12, 1063.
2) K. Inoue et al., Phys. Rev. Lett. 2016, 117, 186101.
3) X. Wei et al., Phys. Rev. B. 2002, 66, 085401.
4) T. Sugimoto et al., Phys. Rev. B. 2019, 99, 121402(R).
5) Y. Otsuki et al., Phys. Rev. B. 2017, 96, 115405.
6) Y. Otsuki et al., Phys. Chem. Chem. Phys. 2019, 21, 20442.
7) F. Kato et al., J. Phys. Chem. Lett. 2020, 11, 2524.
杉本敏樹 分子科学研究所物質分子科学研究領域