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第15回化学遺産認定

公益社団法人日本化学会は、化学と化学技術に関する貴重な歴史資料の保存と利用を推進するため、2008年度より化学遺産委員会を設置し、さまざまな活動を行ってまいりました。「化学遺産認定」は、それら歴史資料の中でも特に貴重なものを認定することにより、文化遺産、産業遺産として次世代に伝え、化学に関する学術と教育の向上および化学工業の発展に資することを目的とするものです。本年は第15回として、ここにご紹介する3件を認定いたしました。

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認定化学遺産 第065号『国産ペニシリン開発および製造関係資料』


ペニシリンは1928 年に英国で発見され,多くの感染症に効く世界初の抗生物質として知られている。英米では第二次世界大戦中に使用され多くの命を救った。日本では、"碧素(へきそ)" (ペニシリンの和製名称)の研究開発が、陸軍軍医学校に設けられた「ペニシリン委員会」(1944年2月~1945年5月)に科学動員された医学・薬学・理学・工学・農学領域の研究者たちの協力の下に進められ、わずか9カ月で目的とする"和製ペニシリン"を得て、その2カ月後には"碧素"の大量製造(1.5L)に成功した。英米に次いで3番目であった。
また、終戦直後GHQの進める平和事業の一つとしてペニシリン製造が取り上げられ、呼応した東洋レーヨン(株)(現東レ(株))は、米国人フォスター博士の指導の下、鍵となる深部培養に成功し大規模工業生産(月産7.5kL)を短期間で開始した(1946年末~1947年8月)。その技術は国内で共有され日本の抗生物質産業興隆の契機となった。
これらの史実を現代に伝える貴重な資料、「碧素アンプル」((公財)日本感染症医薬品協会 所蔵)、 「ペニシリン委員会議事録(第6回)」「陸軍軍医学校研究部年鑑(ペニシリンの項)」「研究部業務日誌(第4分冊/4冊合本)」 (稲垣晴彦氏 所蔵)、「東洋レーヨン(株)ペニシリン工場培養タンクの設計図」「同社ペニシリン生産初期資料」ファイル(東レ(株) 所蔵)を化学遺産として認定する。

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碧素アンプル(10cc) 
(公益財団法人日本感染症医薬品協会 所蔵、
内藤記念くすり博物館 展示)

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陸軍軍医学校 研究部年鑑
(稲垣晴彦氏 所蔵、
内藤記念くすり博物館 展示)


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培養タンク設計図(東レ株式会社 所蔵)

認定化学遺産 第066号『日本に現存する最古のアミノ酸分析計』

1958年、Moore博士、Stein博士により報告された原理に基づき、1962年、アジア初のKLA-2形日立アミノ酸分析計が発売された。その設計図(参考資料)は全て保管されており、初期のアミノ酸分析計を知る上で、この上ない完全な技術的資料であるが、残念ながら実機は現存していない。KLA-2形は分離カラムを2つ切り替えて使う方式であったが、その後、日本電子によりカラムを1つしか使わず、連続して分離する方法が開発されてアミノ酸分析計は1カラム型へと進化する。同時期に起きた高速液体クロマトグラフィー(HPLC)開発の潮流に乗せて、1977年に日立製作所より835形高速アミノ酸分析計が発表された。KLA-2形の分析時間が21時間かかったのに対して、835形では1時間を切った。HPLC化するために、ガラス製カラム管をステンレス鋼へ設計変更、20MPaの高い圧力に耐えるよう微細な国産イオン交換樹脂を開発、さらに溶離液のpHや組成、およびカラム温度など分析法の最適化を行うことにより高速化を実現した画期的なアミノ酸分析計である。835形は我が国に現存する最古のアミノ酸分析計として実機が日立ハイテク社内に保存されている。
本装置は、アミノ酸分析計の初期からHPLC機に至る技術の変遷を詳細に把握することができる貴重な装置であり、化学遺産として認定する。

isan062_article.jpg 化学と工業特集記事

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835形日立高速アミノ酸分析計
(株式会社日立ハイテクサイエンス 那珂事業所 所蔵)

認定化学遺産 第067号『太平洋戦争中に日本でポリスチレンを工業化していたことを示す資料』

ポリスチレン(PS)は1930年代にドイツで工業化され日本にも輸入された。工業化のポイントはスチレンモノマー(SM)製造技術の確立であった。当時のエチルベンゼン脱水素法は、タールが大量に副生し収率が悪かった。太平洋戦争中はPSの輸入が困難になる一方、レーダーの開発に不可欠な高周波絶縁材料として必要性が高まり日本政府・軍ともに民間企業の工業化を支援した。
塩野香料(株)、保土谷化学工業(株)、日本有機(株)(現・花王(株))はドイツとは全く別の、各社得意技術を生かした別々のSM製法を開発し1943~44年に相次いでPS月産1~数トンの生産を開始した。一例として塩野香料のSM製法は、合成β-フェネチルアルコール(バラ等にも含まれる香気成分)の脱水法であった。
しかしながら、1945年相次ぐ空襲により保土谷化学工業、日本有機の工場や研究所が被災したため資料は残っていない。一方、塩野香料には軍需省の発注工場指定書を始め、設備完成報告書、生産及び受払報告書、原価計算書等が保存されている。これらは太平洋戦争中に日本でPSを工業化していたことを示す貴重な資料であり、化学遺産として認定する。

isan063_article.jpg 化学と工業特集記事

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軍需大臣東條英機名の発注工場指定書
(塩野香料株式会社 所蔵)