平成20年3月発足した「日本化学会化学遺産委員会」では、平成21年度から事業の一環として、世界に誇る我が国化学関連の文化遺産を認定し、それらの情報を社会に向けて発信する『化学遺産認定事業』を開始、これまでの6回で33件を認定し、認定証を贈呈し顕彰いたしました。 第7回目となる平成27年度も、認定候補を本会会員のみならず会員以外からも広く公募し、応募のあった候補を含め委員会で認定候補の具体的な内容、現況、所在、歴史的な意義などを実地調査いたしました。その調査結果に基づき慎重に検討のうえ5件(学術関係1件、化学技術関係4件)を認定候補として選考いたしました。さらに委員会では、委員会関係者とは異なる学識経験者で構成された「化学遺産認定小委員会」に審議を諮問いたしました。その結果、5件の認定候補はいずれも世界に誇る我が国化学関連の文化遺産としての歴史的価値が十分認められ、化学遺産認定候補として相応しいとの最終答申をいただきました。 この答申をうけ、化学遺産委員会では第6回認定候補5件の関係先に対し、日本化学会「化学遺産」として認定・登録することについてご承諾をいただき、本年2月開催の理事会に諮りました。その結果、認定候補5件いずれも化学遺産として認定することが全会一致で承認されました。今回認定されました5件は下記のとおりです 認定化学遺産 第034号『日本の写真化学の始祖「上野彦馬」関連資料』 認定化学遺産 第035号『明治期日本の化学の先駆者・化学会初代会長 久原躬弦関係資料』 認定化学遺産 第036号『野副鐵男の化学遺産―非ベンゼン系芳香族化合物資料と化学者サイン帳』 認定化学遺産 第037号『日本の高圧法ポリエチレン工業の発祥を示す資料』 認定化学遺産 第038号『日本の近代的陶磁器産業の発展に貢献したG. ワグネル関係資料』 |
上野彦馬(うえのひこま)(1838-1904)は、長崎に生まれ、18歳でオランダ人医師ポンペから舎密学(化学)を学んだ時、蘭書の中に「ホトガラフィー」の言葉を見て写真に興味を抱き、当時発明後間もないコロジオン湿板による写真技術を習得した。写真に必要な薬剤はすべて自ら製造したが、その苦労は大変なものであった。1862年(文久2年)には『舎密局必携』(三巻)を刊行し、その巻三の付録では"撮影術 ポトガラヒー"として写真術についての詳細な記述をしている。 『舎密局必携』は幕末から明治期における舎密学の発展にも大いに貢献した。この年には長崎で上野撮影局を開設し、坂本龍馬、高杉晋作といった幕末から維新にかけて活躍した人物や長崎の風景等を多く撮影している。銀板写真から湿板写真、そして乾板写真へと写真技術が進展する中で常に最先端の技術を習得して日本における写真化学・撮影術の基礎を築いた。晩年まで薬剤の調製や処方の研究を続け、多くの門下生を育てた。 日本における写真化学の始祖としての上野彦馬に関する資料類は化学遺産として貴重なものである。
『上野彦馬像』(ガラス湿板写真)伝 堀江鍬次郎撮影1861年(日本大学芸術学部 蔵)
『上野彦馬愛用の写真機』
(長崎歴史文化博物館 蔵)
『舎密局必携』(産業能率大学 蔵)
『写真「武藤アルバム」より』
(長崎大学付属図書館 蔵)
久原躬弦(くはらみつる)(1855-1919)は、現在の岡山県津山に生まれ、1877年に東京大学理学部化学科を最初の卒業生3名の一人として卒業した。1878年神田一ツ橋の東京大学教員控室にて化学会第1回集会が在校生や卒業生20数名によって開催され、久原は23歳で化学会初代会長に選任された。これが現在の日本化学会の創立である。翌年米国ジョンズ・ホプキンス大学に留学、レムゼン教授より最先端の有機化学を学び、Ph.D.を取得した。帰国後、東京大学教授、第一高等学校校長を歴任した。 1899年に京都帝国大学理工科大学有機化学教授となり、化学教室新設のため欧米の大学を視察した。帰国後、京都帝国大学理工科大学長、第4代総長を歴任した。この間、久原は日本最初の有機立体化学書「立体化学要論」等を著している。本格的な研究は京都帝国大学時代におこなわれ、特にベックマン転位に関する研究では、その反応中間体の単離に成功し、独自の反応機構の提案等をして世界的な評価を得た。これは久原の業績の中で最も精魂を注いだ研究となった。日本で行われた理論有機化学の研究で世界的に注目された例は数少なく、明治初期における化学の先駆者の業績として高く評価されている。
『久原躬弦』
(日本化学会 提供)
『有機化学講義録』
(津山洋学資料館 蔵)
『東京大学卒業証書』
(久原家所有 津山洋学資料館 蔵)
『実験録(1911年)』
(津山洋学資料館 蔵)
野副鐵男(のぞえてつお)(1902-1996)は、台北帝国大学においてタイワンヒノキの精油からヒノキチオールと名付けた物質を単離し、1948年帰国後これが前例のない不飽和七員環構造を含み、芳香族性を示すことを明らかにした。さらに、ヒノキチオールの母体であるトロポン、トロポロンをはじめアズレンやその誘導体等を合成し、「非ベンゼン系芳香族化学」という新しい分野を創始し確立した。研究は第二次大戦直前から戦後の諸事困難な時期にわたって進められた。野副の優れた研究成果が海外に伝えられると、大きな驚きと関心を集めた。 「非ベンゼン系芳香族化合物資料」は野副らによって合成された約2300点に上る化合物のコレクションで、この分野の全体像を知ることのできる重要な資料である。「野副の化学者サイン帳」は単なる記名簿ではなく、非ベンゼン系芳香族化学の形成期から確立期における野副と研究者との交流の様子を知ることができる貴重な資料である。サインをした人は約4000名にのぼり、ノーベル賞受賞者が少なくとも37名含まれており、学術的にも、化学史的にも高い価値を持っている。このサイン帳は、"The Chemical Record"に掲載され、WEBで閲覧することができる。
『野副鐡男』(東北大学 提供)
『化学者サイン帳(全9冊)』
(東北大学資料館 蔵)
『J. D. Roberts 1965年4月11日』
(東北大学資料館 蔵)
『非ベンゼン系芳香族化合物資料』
(東北大学総合学術博物館 蔵)
『非ベンゼン系芳香族化合物資料』
(東北大学総合学術博物館 蔵)
ポリエチレン(PE)は、石油化学工業を代表する製品である。PEは製造法や密度により大別して3種類あるが、その1種である高圧法低密度PEは最初に発明され、英国ICI社で1939年に工業化された。このPEは優れた高周波絶縁性能を持ち、第二次大戦中はレーダー製造に不可欠な材料になった。日本でも1943年から海軍の委託を受けて野口研究所-日本窒素肥料、京都大学-住友化学工業、大阪大学-三井化学工業の3グループで研究され、1945年1月に日本窒素肥料水俣工場で小規模に工業化された。しかし、同年5月、空爆を受けて設備が完全に破壊された。 戦後、京都大学で研究が再開され、1951年から1953年に連続中間試験が行われた。この試験の設計図、研究ノート、研究報告書が化学遺産に認定された。 この研究を基礎に、住友化学工業が工業化試験設備を建設し稼働させた。このような研究蓄積からICI社は住友化学工業を技術供与先とした。1958年に年産1万1千トン設備が新居浜で稼働し、日本での本格的な石油化学工業開始の一つとなった。この技術導入契約書と最初の製品によってつくられた記念レリーフメダルも化学遺産に認定された。
『京都大学連続中間試験装置設計図』
(京都大学化学研究所 蔵)
『日本で最初の本格的生産を記念したポリエチレン製メダル』(住友化学(株) 蔵)
ドイツ出身のG.ワグネル(1831-1892)は1881年に東京大学理学部化学科教授となり、日本の近代的陶磁器産業の礎となる吾妻焼の窯を築いた。1884年には東京職工学校(現東京工業大学)の外人教師となり、施設・設備も同校に移され、吾妻焼は、「旭焼」と名が改められた。旭焼はワグネルを中心に研究が進められ、日本画のもつ筆の運びと多彩な色彩における濃淡表現をそのまま損なうことなく、絵付けされた陶器である。 ワグネルは釉薬の下に絵付けを施す「釉下彩技法」を用いて、素地と絵が一体となった貫入のない美しい肌を持つ陶器の製作法を開発した。また、科学的に温度制御をしながら焼成することにより良質な陶磁器を効率よく製作するなど、日本の陶磁器産業の近代化に大きな貢献をなした。 ワグネルが釉下彩陶器を欧米人が好む純日本風の図柄で彩色したことにより欧米の需要が急増し、外貨獲得に貢献した。
『ゴットフリード・ワグネル』
(東京工業大学 提供)
『旭焼タイル』
(滋賀県工業技術総合センター 蔵)
『吾妻焼 釉下彩鉢』
(東京工業大学博物館 蔵)
『旭焼 釉下彩雀図皿』
(東京工業大学博物館 蔵)
『旭焼 釉下彩獅子舞型置物』
(東京工業大学博物館 蔵)