平成20年3月発足した「日本化学会化学遺産委員会」では、平成21年度から事業の一環として、世界に誇る我が国化学関連の文化遺産を認定し、それらの情報を社会に向けて発信する『化学遺産認定事業』を開始、これまでの4回で22件を認定し、認定証を贈呈し顕彰いたしました。 第5回目となる平成25年度も、認定候補を本会会員のみならず会員以外からも広く公募し、応募のあった候補を含め委員会で認定候補の具体的な内容、現況、所在、歴史的な意義などを実地調査いたしました。その調査結果に基づき慎重に検討のうえ6件(学術関係3件、化学技術関係3件)を認定候補として選考いたしました。さらに委員会では、委員会関係者とは異なる学識経験者で構成された「化学遺産認定小委員会」に審議を諮問いたしました。その結果、6件の認定候補はいずれも世界に誇る我が国化学関連の文化遺産としての歴史的価値が十分認められ、化学遺産認定候補として相応しいとの最終答申をいただきました。 この答申をうけ、化学遺産委員会では認定候補の関係先に対し、日本化学会「化学遺産」として認定・登録することについてご承諾をいただき、平成26年2月開催の理事会に諮りました。その結果、認定候補いずれも化学遺産として認定することが全会一致で承認されました。今回認定されました6件は下記のとおりです。 |
明治から昭和前期にかけて活躍した化学者で、「日本の近代化学の父」と呼ばれる。池田菊苗、眞島利行など数多くの弟子を育てるとともに、日本の化学研究、さらに学術研究体制の基盤を築き上げた。18歳でロンドン大学に留学し、最初の化学の学年末試験で一等賞を受賞し、賞状と金メダルを授与された。帰国翌年の1882年に東京大学化学教授になり、化学研究の基盤を築いていった。また、帝国学士院長、枢密院顧問官などを歴任し、理化学研究所(1917年)や日本学術振興会(1932年)の設立に関わり、日本の夫学術研究の体制を築いた。櫻井家に保存されていた多数の資料が石川県立歴史博物館、日本学士院、日本学術振興会、東京大学理学系研究科、国立科学博物館に寄贈されている。その中で特に重要な資料を化学遺産に認定する。
長井長義(1845-1929)は1871年明治新政府の海外派遣留学生としてベルリン大学に渡り、ホフマン教授の指導を受けた。帰国後、東京大学教授として化学・薬学の指導を行い、1885年に1麻黄の薬効成分を単離・構造決定をし、エフェドリンと命名した。また、日本女子大学等で女子教育に大きく貢献し、教え子には、帝国大学初の女性入学者(東北帝国大学)で、その後化学者として活躍する黒田チカ、丹下ウメなどがいる。徳島大学、日本女子大学成瀬記念館および大日本住友製薬に保管されている資料類は、幕末から明治、大正にかけての日本の化学(有機化学・天然物化学)、薬学の発展および産業発展に貢献したことを示す貴重なものである。
旧第五高等学校化学実験場は1889年に建設され、戦後、熊本大学に継承された(重要文化財)。本実験場には演示実験を行った階段教室(黒板の後ろがドラフト)に加えて、アルコールランプの燃焼による上昇気流を利用した排気システムを持つ日本最古のドラフトチャンバーも原型のまま残されている。
旧第四高等学校物理化学教室は、1890年に建設され、戦後、金沢大学に継承され、現在は博物館明治村に移築・復元されている(登録有形文化財)。建物の工事監督者は文部省技師山口半六、設計者は文部省技師久留正道で、両名は旧第五高等学校化学実験場の設計者と同一人物で、当寺の学校建築の第一人者である。
両施設とも、明治政府が中等・高等教育において実験を含めた自然科学教育を極めて重要視していたことがうかがえる貴重な史料である。
宇都宮三郎(1834-1902)は幕末に「舎密開宗」を独習するなどして化学の腕をみがき、蕃書調所(東京大学の源流)精煉方(後の化学方)で技術の向上と後進の指導に努めた。舎密でなく当時最新の「化学」を役所名にするよう進言したことが知られる。明治維新後は新政府に出仕し開成学校の教官、工部省・農商務省の技官を務め、セメント、耐火煉瓦、炭酸ソーダなどの国産化や醸造などの近代化を陣頭指揮した。また、退官後も地元の産業振興に貢献した。日本初の化学技術者といえる宇都宮三郎の草創期の日本の化学教育および近代化学産業成立への貢献は大きい。
早稲田大学図書館特別資料室所蔵の自筆資料、幸福寺(墓所:豊田市)所蔵の辞令類、造幣局造幣博物館所蔵の曹達製造装置模型などを化学遺産認定に認定する。
プラスチックは戦後の日本人の生活を大きく変えた。射出成形機は、押出成形と並ぶ重要なプラスチック成形加工法である。溶融したプラスチックを金型に高圧で射出注入した後、冷却し、金型を開いて成型品を取り出す。1920年代にドイツで発明され、1933年には画期的な機械駆動式横型自動射出成形機Isomaが開発された。日本には1937年に旧式射出成形機が初めて輸入され、翌年にはそれをモデルに手動式機械が初めて国産されたが写真だけしか残っていない。1943年に日本窒素肥料がIsoma機を金型とともに研究機器として購入した。これをモデルに名機製作所がナデム100(現存品なし)を1947年に国産化し、誕生したばかりの積水化学工業が30台まとめて購入して操業を開始したことから、戦後日本の射出成形加工業は発展していった。旭化成所蔵のIsoma射出成形機と積水化学工業所蔵の金型は、その原点となった1943年輸入品である。日本の化学工業の発展を示す重要な資料として化学遺産に認定する。
昭和に入ったころ、アルミニウム地金の輸入量が年間1万トン規模となり、国産化への要望が高まったが、当時は国内で製造することは困難であるとされていた。後に昭和電工の創業者となる森 矗昶(もり のぶてる)は、「電気の原料化」という経営理念のもとに、輸入に頼るしかないボーキサイトに代わり、国内で入手可能な明礬石を原料とする独自技術と自らが建設に携わった長野県大町の水力発電による電気を使って、電解精錬によるアルミニウムの生産に挑戦し、多くの困難を乗り越えて1934年、日本初の国産アルミニウムの工業的生産に成功した。
アルミニウム製造工場であった昭和電工大町事業所、アルミナの製造工場であった横浜事業所には、それぞれ国産初のアルミニウム塊およびその原料として用いられた明礬石が保存されている。日本の化学工業の発展を示す重要な資料として化学遺産に認定する。