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第12回化学遺産認定

2008年3月発足した「化学遺産委員会」では、2009年度から事業の一環として新たに、世界に誇る我が国化学関連の文化遺産を認定し、それらの情報を社会に向けて発信する『化学遺産認定事業』を開始しております。今まで11回54件を認定し、化学遺産認定証を贈呈し顕彰いたしました。

本年度第12回につきましても、認定候補を本会会員のみならず会員以外からも広く公募いたしました。その後、応募のあった候補を含め傘下の「化学遺産調査小委員会」において、委員が認定候補の具体的な内容、現況、所在、歴史的な意義などを実地調査し、調査結果に基づき慎重に検討のうえ3件を認定候補として選考いたしました。さらに、化学遺産委員会では、委員会関係者とは異なる学識経験者で構成された「化学遺産認定小委員会」に審議を諮問いたしました。その結果、3件の候補はいずれも世界に誇るわが国化学関連の文化遺産としての歴史的価値が十分認められ、化学遺産候補としてふさわしいとの最終答申をいただきました。

この答申を受け、化学遺産委員会では3件の関係先に「化学遺産」として認定・登録することについてご承諾をいただき、理事会に諮りました。その結果、認定候補3件いずれも化学遺産として認定することが全会一致で承認されました。今回承認された3件は下記のとおりです。

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認定化学遺産 第055号『日本の石油化学コンビナート発祥時の資料 』


第2次大戦後、合成繊維工業、合成樹脂成形加工業の発展に伴い、1950年頃には石油化学国産化の必要性が高まった。政府も石油化学製品の輸入急増に対処(外貨節約)するために石油化学工業の国産化政策を積極的に進めた。この結果、三井石油化学工業、住友化学工業、三菱油化、日本石油化学の4社のエチレン計画及びコンビナート参加他社を含めた誘導品計画が石油化学第1期計画として認可された。そのトップを切って1958年2月に三井石油化学工業岩国でエチレン2万トン設備が稼働を開始し、続いて1960年半ばまでには誘導品設備も含めて第1期計画の石油化学コンビナート設備すべてが操業を開始した。その後、石油化学工業には多くの企業が参入し、最大時には15の石油化学コンビナートが稼働した。石油化学工業は1960~70年代には急速に設備規模を拡大してコストダウンが図られ、日本の化学工業の構造を大きく変えるとともに、その基盤を担う部門として大きく発展した。 しかし、第1期計画による設備は、その後の石油化学工業内の競争に敗れ、1980~90年代に続々と廃止された。石油化学工業発祥時の設備は、その後の巨大化した石油化学工業設備に比べて小規模とは言え、それ以前の化学工業設備に比べれば非常に大きく、廃止された設備やその一部でも保存されることはまれである。岩国大竹工場に保存されているナフサ水蒸気分解装置1号機の原料フィードポンプ(1958年)、2号機のガスコンプレッサー・ピストン(1962年)、高密度ポリエチレン反応装置(1958年)および高密度ポリエチレン関連の技術資料(1956年~)は、日本の石油化学コンビナート発祥時の数少ない資料として貴重であり、化学遺産として認定する。 

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ナフサ分解装置1号機 原料フィードポンプ

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ナフサ分解装置2号機 ガスコンプレッサー・
ピストン

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低圧法高密度ポリエチレン反応装置 

(認定対象物はいずれも三井化学(株)岩国大竹工場所蔵)

認定化学遺産 第056号 『苦汁・海水を原料とする臭素製造設備と磁製容器』

臭素は、現在、難燃剤や各種化学品の原料として重要である。臭素の製造法には、主に天然かん水や製塩時に副生する苦汁を原料とする方法と、海水から直接製造する方法の二通りある。日本では、戦前、瀬戸内地方の製塩業を背景として苦汁から前者の方法により少量が生産されていたが、太平洋戦争を控えた1941年4月に海軍は航空機燃料のアンチノック剤の添加剤の原料となる臭素を大量生産することを化学会社各社に要請した。対応した会社の内、東洋曹達工業㈱(現東ソー㈱)は、海水直接法を採用し、さまざまな技術的困難を克服して、翌年2月には小規模生産を開始し、6月末までに4基の発生塔を完成させて大規模生産を開始した。最大の技術的課題は酸性度の高い発生塔内部の充填材(液流分散材)であった。東洋曹達は竹材を選択し、直径約6 cm長さ2 mの竹を、発生塔1基あたり約10万本を2m×2mで格子状に積み上げて使用した。当初、寿命は長くて半年とも云われたが10年以上使用できた。東ソー㈱南陽事業所には、1961年から1973年まで操業した臭素5号塔(2019年解体)で使用された竹の充填材の一部が保存・公開されている。同所には、状態の良い磁製容器、容器図面、1957-9年頃の石製の臭素蒸留塔修理時の写真アルバムも保存されている。
また、臭素利用事業を展開しているマナック㈱は、1963年まで苦汁から臭素を製造しており、創業35年の1983年に、かつての同業社、吉川化学工業所が使用していた石製のKubierschky式蒸留塔(キュビルスキー塔)を譲り受け福山工場に移築し記念塔とし、同時期に東ソーから譲り受けた磁製容器を周囲に置き、昔を偲んでいる。
これら臭素製造設備の石製蒸留塔、竹充填材、磁製臭素容器などは、資源に乏しい日本における臭素製造の歴史を現代に伝える貴重な資料であり、化学遺産として認定する。

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磁製臭素容器および容器図面
(東ソー(株)所蔵)


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錨マーク付き磁製容器
(東ソー(株)所蔵)

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石製蒸留塔
(マナック(株)所蔵)


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有孔板
(マナック(株)所蔵)

認定化学遺産 第057号『再製樟脳蒸留塔』

樟脳は樟の精油主成分であり、分子式 C10H16Oで表される二環性モノテルペンケトンの一種である。古くは西暦600年ころアラビアで製造され、貴重薬として利用されていた。日本には寛永年間に伝わり、島津藩や土佐藩で楠から直火式水蒸気蒸留法により製造されていた。江戸時代から昭和にかけて樟脳は日本の主要な化学製品として輸出されたが、その後樟脳合成法が確立され、現在は合成樟脳が主流となっている。
樟樹から山製樟脳(粗樟脳)を採った後、残る樟脳生油中にも樟脳が溶けていることが分かり、それまで捨てられていた樟脳生油から樟脳(再製樟脳)を採る技術が明治末期に日本で独自に開発された。当時日本最大の商社であった「鈴木商店」の大番頭金子直吉は、台湾総督府技師から鈴木商店に入社した村橋素吉氏らに働きかけ、過熱水式減圧蒸留塔を設計し、ドイツで作らせた。1912年にその装置は完成したが、1917年に焼失した。その後、現日本テルペン化学(株)の前身である再製樟脳(株)が神戸市に設立され、1920年9月15日に蒸留塔が国産として再建された。樟脳生産副産油の分析を通し、精油分留成分としてピネンやオイゲノール、ジペンテン等の有用化学品の商品化が行われた。樟脳はセルロイドの可塑剤としての需要にも支えられ発展し、セルロイド、樟脳共にある時期日本の主要な化学製品であった。
以上のように、再製樟脳蒸留塔は樟脳および種々の副生精油成分の製造に大きな役割を果たした。戦災を乗り越えたが先の阪神・淡路大震災では壊滅的な破壊を受けた。震災後移転した日本テルペン化学(株)神戸工場内にその一部ではあるが移設された本装置は再製樟脳関連事業の歴史的経緯を示すものとして化学遺産として認定する。

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再製樟脳蒸留塔(部分)
(日本テルペン化学株式会社蔵)

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再製樟脳製造装置略図
(再製樟脳株式会社パンフレットより)