平成20年3月発足した「日本化学会化学遺産委員会」では、平成21年度から事業の一環として、 世界に誇る我が国化学関連の文化遺産を認定し、それらの情報を社会に向けて発信する『化学遺産認定事業』を開始、これまでの7回で38件を認定し、認定証を贈呈し顕彰いたしました。 第8回目となる平成28年度も、認定候補を本会会員のみならず会員以外からも広く公募し、応募のあった候補を含め委員会で認定候補の具体的な内容、現況、所在、歴史的な意義などを実地調査いたしました。その調査結果に基づき慎重に検討のうえ5件(学術関係1件、化学技術関係4件)を認定候補として選考いたしました。さらに委員会では、委員会関係者とは異なる学識経験者で構成された「化学遺産認定小委員会」に審議を諮問いたしました。その結果、5件の認定候補はいずれも世界に誇る我が国化学関連の文化遺産としての歴史的価値が十分認められ、化学遺産認定候補として相応しいとの最終答申をいただきました。 この答申をうけ、化学遺産委員会では第8回認定候補5件の関係先に対し、日本化学会「化学遺産」として認定・登録することについてご承諾をいただき、本年2月開催の理事会に諮りました。その結果、認定候補5件いずれも化学遺産として認定することが全会一致で承認されました。今回認定されました5件は下記の とおりですが、この内容の詳細は、来る3月18日 13:30~、慶応義塾大学日吉キャンパスで開催される日本化学会第97春季年会で「第11回化学遺産市民公開講座」において紹介される予定です。(2017.03.07公開) |
辻本満丸(1877-1940)は1901年、東京帝国大学を卒業後、工業試験所に入所し、本邦産植物油・海産動物油などの高度利用を目指して性状・成分を明らかにする研究を行い、二百数十編に及ぶ論文発表と特許を取得し、我が国の油脂化学並びに工業の発展に主導的な役割を果たした。特に、鮫肝油中に存在する高度不飽和炭化水素「スクアレン(C30H50)」の発見(1916年)は国際的にも高い評価を受け、1920年には「油脂の研究」に対して恩賜賞が授与された。スクアレンは学術用語にもなり、スクアレンおよびスクアランは医薬品、化粧品及び工業油として広く利用されてきた。また、辻本等の特許をベースに、いわし油等を原料とする国産初の硬化油製造技術が1914年に開発された。更に、イシナギ等の魚肝油中に大量のビタミンAが含まれていることを発見した。硬化油及び魚肝油は大正から昭和にかけてヨーロッパ、中国等に輸出され、外貨の獲得に多大の貢献をした。1951年には門下である外山修之も海産動物油に関する研究に対し恩賜賞を授与された。産業技術総合研究所が保存している、辻本満丸が作成した実験ノート(88冊)や標本(124瓶)は我が国の油脂化学の生みの親、辻本満丸の活躍を物語る化学遺産である。
世界の酸素工業は、1902年にリンデ(独)が、断熱膨張弁を使うリンデ‐ハンプソン型空気液化装置に、酸素分離装置を組合せて始まった。同年、クロード(仏)が断熱膨張機を使うクロード‐ハイランド型空気液化装置を完成し、工業的酸素製造法は低温技術の違いで2方式が競争していた。日本の酸素製造は、エア・リキード社(仏)が1907年に大阪鉄工所(現日立造船)内にクロード‐H型空気液化装置で、また日本酸素(現大陽日酸)が1911年に東京でリンデ‐H型空気液化装置で始めた。日本でも2方式が競っていた。(1)大陽日酸(株)の日本酸素記念館(山梨県北杜市)に、創業時の工場建屋や日本理化工業(→日本酸素→現大陽日酸)製作の国産初の液体酸素製造装置とともに、創業時の装置が保存展示されている。また、(2)日本エア・リキード社も、創業時と同じ型式・規模の装置(六角木製箱に酸素精留塔および熱交換器を内蔵、膨張機使用)を、テイサン記念館(兵庫県播磨町)に長く展示し、現在解体保管中である。2方式の実生産装置の主要部が日本に遺っている。酸素工業は日本の重工業化を支えた重要産業であり、これらを化学遺産に認定した。
上山英一郎(うえやまえいいちろう)(1862~1943)は、1885年に除虫菊の種子を米国より入手し、和歌山で栽培を開始した。これが日本における殺虫剤産業の発祥である。上山は自らの手で『除虫菊栽培書』を発刊し栽培の普及に努めた。除虫菊は当初ノミ取り粉として使用されたが、上山は除虫菊粉に椨粉(たぶこ)などの糊を加えて棒状に成型し、1890年に世界初の棒状蚊取り線香を商品化した。その後上山の妻「ゆき」の発案で、燃焼が約6時間持続可能な渦巻型が試作された。1895年に誕生したこの渦巻型は、現在でも殺虫剤の主流である蚊取り線香の原型として受け継がれている。除虫菊に含まれる天然有効成分・ピレトリン類は多くの研究者により構造解明がなされたが、最後まで決まらなかったアルコール部分の絶対配置研究に取り組んだ勝田純郎は、1958年アルコール部分(シクロペンテノロン環)が有する不斉炭素の絶対配置を決定して、ここにピレトリン類の化学構造の全貌が明らかとなった。これを基にその後多くの合成ピレスロイドが発明され、様々な新しい殺虫剤の開発に繋がった。これらにまつわる一連の資料類が大日本除虫菊(株)に所蔵されており、化学遺産として価値あるものである。
明治政府は、華族に対するお歯黒、眉(まゆ)掃(は)きの禁止、断髪令発布など化粧や髪型の西洋化を進めたが、庶民にまで近代的な化粧が普及するには相当な時間が必要であった。しかも、化粧品の種類は多いので、近代化粧品工業は明治期を通して徐々に形成された。明治前期には石鹸、化粧水の工業生産が始まり、明治中期には性能の良い歯磨きや無鉛白粉(おしろい)の生産が始まった。明治後期には大ヒット化粧品や現在も販売されているロングライフ商品(化粧水オイデルミン、美髪剤フローリン、洗顔料クラブ洗粉等)が生まれるようになり、近代化粧品工業は大きく開花した。化粧品会社の栄枯盛衰は激しく、資料の多くが散逸し、年代不明になったが、日本で最初の石鹸製造を行った堤石鹸関係資料(日誌(1873年)等、商標、木型)及びそこからの技術が派生して生まれた花王関係資料(分析証明書(1890年)、調合帳(1903-13年))、ライオン関係資料(製造日記(1894年))、化粧品容器及び処方等が保存されている資生堂関係資料(福原衛生歯磨石鹸(1888年)、化粧水、美髪剤)、明治後期の大ヒット化粧品のうち製造年代が明確に分かるライオン歯磨(1899年)、クラブ洗粉(1906年)は近代化粧品工業の発祥、発展を示す貴重な資料である。
ヨウ素は1814年にフランスで海藻灰を原料に工業生産が始まった。日本でも海藻灰法による生産が1880年代末に始まったが、1868年にチリで硝石製造廃液からのヨウ素生産が始まると海藻灰法は世界的に押されていった。相生工業(株)(現在の(株)合同資源)の創業者三増春次郎は、大河内正敏博士の助言を受けて房総半島で得られる天然ガスかん水からのヨウ素生産を考えた。製造技術の開発を三増から依頼された京都帝国大学佐々木申二教授は、この地方のかん水に高濃度に含まれる炭酸水素イオンを活用した銅法の開発に成功した。1934年に相生工業はこの製法を工業化した。1960年代に開発され現在も使われている新製法(ブローアウト法、イオン交換樹脂法)に切り替わるまでの約40年間にわたって、銅法は日本のヨウ素生産の主力技術となり、ヨウ素輸出にも貢献した。
ドルシックナーは、銅法の反応設備兼沈降設備である。千葉県大多喜町の旧・上瀑(かみたき)工場に残るドルシックナーは、相生工業が工業化に成功した当時建設された直径約10m、深さ3.5mの巨大なコンクリート構築物である。また相生工業の名前の入った木製樽は銅法ヨウ素製品容器として1950年代から60年代に使用された容器である。